映画・映像 | |
映画のメティエ 日本篇 | |
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筒井武文[著] |
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2025年3月に刊行された好評の「欧米篇」に続く「日本篇」。溝口、小津などの古典映画から現代映画へと視点を移しながら、個々の映画に注がれる繊細な眼差しが、新たな日本映画史の流れを形づくる。「欧米篇」同様、多彩な映画論が躍動する。 [序]日本映画とは何か ■ [第T部]古典映画 〈場〉の要請する衣裳力学 ジャック・リヴェットから溝口健二へ 環境の映画、映画の環境 一九三五年の成瀬巳喜男 割れない壺 山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』 映画で歩くこと 清水宏『按摩と女』『簪 』 人力車を彩る光と影の戯れ 石田民三『むかしの歌』 映画に文法はない 小津安二郎の移動撮影 色彩の遊戯による視線の誘導 小津安二郎の後期 ■ [第U部]戦後映画 脆い境界線の魅惑 黒澤明『素晴らしき日曜日』 スタンバーグ最後のヒロインは日本にいる! 『アナタハン』 始源の映画的想像力の覚醒 川島雄三の大映作品 異次元空間で爆発する関係の逆転劇 増村保造『偽大学生』 ローアングルの闘い 加藤泰の撮影術 闇の暗さと懐かしさと 中村錦之助追悼 脱線しない列車映画の悪夢 瀬川昌治論 ■ [第V部]撮影所崩壊期 平面の視線劇 吉田喜重論 時間の罠 大和屋竺論 似ているのか、似ていないのか 鈴木清順浪漫三部作 身体のどんでん返し 神代辰巳論 日活ロマンポルノの環境 中川好久『むちむちネオン街 私たべごろ』 プログラム・ピクチャーから遠く離れて 続・瀬川昌治論 遠近法の攪乱 寺山修司論 意識と無意識のあいだに 松本俊夫追悼 ■ [第W部]世紀末の静かな革命 虚構の空間宣言 黒沢清『地獄の警備員』 『福沢諭吉』は傑作です 山田宏一さんへの手紙 対で存在する 澤井信一郎論 映画の虚構性への問い 相米慎二論 空間の変奏曲 風間志織『冬の河童』 辺境の「鏡の国のアリス」 青山真治『Helpless』 十の恐怖、Xの悲劇 黒沢清『CURE』 「フレーム」の内側と外側 田村正毅論 ■ [第X部]ある映画作家・諏訪敦彦 ゼロからの出発 『2/デュオ』 俳優に絶対の自由を与えること 『M/OTHER』 不可能なリメイク 『H story』 併置された孤独の痛み 『不完全なふたり』 不在のフレーミング 『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために──制作・教育・批評』 諏訪敦彦全作品解説 ■ [第Y部]二一世紀の映画作家 二一世紀の映画環境 正面に気をつけろ 井口奈己論 映画という名の実験場 宮崎大祐論 古くて新しい映画が生まれた 三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』 映画的奇跡を呼び込む 『孤独な惑星』の綾野剛 わたしは誰なのか 杉田協士論 モノローグと密着 井川耕一郎追悼 テラスハウスの迷宮 小林豊規『静かに燃えて』 ■ [第Z部]映画批評家論 「ぼくのヒッチコック研究」を研究する 植草甚一論 映画への愛と欲望 山田宏一論 映画的思考のすべての可能性 小松弘『起源の映画』 映画の発見への旅 山根貞男『現代映画への旅』&青山真治『われ映画を発見せり』 『リトアニアへの旅の追憶』のように 西嶋憲生『生まれつつある映像──実験映画の作家たち』 映画はなぜ面白いか 粉雪まみれ『デコボコ映画館──ハンディキャップ映画について語ろう』 肯定と否定のあいだで 蓮實重?『映画に目が眩んで』 積極的に未完を引き受ける倫理 中条省平『映画作家論──リヴェットからホークスまで』 「終わり」のない映画の企て 小川紳介『映画を穫る──ドキュメンタリーの至福を求めて』 映画の世紀末への眼差し 『悪魔に委ねよ──大和屋竺映画論集』 「大和屋的なる場」との遭遇 『荒野のダッチワイフ──大和屋竺ダイナマイト傑作選』 創造の不可思議な秘密 ダンヴェール/タトム『ナギサ・オオシマ』 映画を音から見た「オペラ」の書 橋本文雄・上野ミ志『ええ音やないか──橋本文雄・録音技師一代』 |
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[著者] 筒井武文(つつい たけふみ) 1957年生まれ。映画監督、東京藝術大学大学院映像研究科教授 東京造形大学時代から、映画製作を始める。卒業後はフリーで、助監督、映画編集をやりながら、自主製作を続ける。劇場デビューは、1987年公開の『ゆめこの大冒険』。監督作品に、『レディメイド』(1982)、『学習図鑑』(1987)、『アリス イン ワンダーランド』(1988)、『オーバードライヴ』(2004)、『バッハの肖像』(2010)、『孤独な惑星』(2011)、『映像の発見=松本俊夫の時代』5部作(2015)、『自由なファンシィ』(2015)、『ホテルニュームーン』(2020) |